BY hisss · 2016年6月8日
7 世紀、バリがまだ王国だった頃、
王のひとりイ・デワ・アグン・カルナがスカワティの寺院で瞑想をしていました。
そのとき、 王は天上界で舞う天女の姿が見えました。
そしてそれをレゴンという舞踊に仕立てることにしたのです。
王は天女の舞にふさわしい少女の舞手が見つからなかったため、
少年の踊り手二人に天女の仮面をかぶせて踊らせました。
その仮面は今もスカワティ地方の王宮跡地に建てられている寺院に奉納されており、
普段は仮面は見ることも撮影することも許されていません。
今も年に一度のお祭りの時にだけ選ばれた少女がこれをつけて踊るのです。
そして、レゴン舞踊は王宮を訪れた賓客をもてなすために披露されるようになりました。
そのため、「レゴン・クラトン=宮廷のレゴン」とも呼ばれます。
レゴン舞踊の担い手は、舞踊教師にその才能を認められた子供たちのみが習うことを許され、
幼少より王宮に住まわせられつつ芸を身につけていきました。
芸能の島バリ。
バリ島の楽団が史上初めて海外公演を行ったのは、1931 年のことでした。
フランス・パリで開催された世界植民地博覧会において公演を行った、伝統的レゴン舞踊で有名なプリアタン村の
グヌン・サリ楽団です。
グヌン・サリの演奏と舞踊は当時の欧米の芸術家や文化人達に衝撃を与え、その後太平洋戦争までの間、
第1次バリブームともいえる観光ブームがバリ島に到来しました。
この時グヌン・サリを率いていた立役者がアナック・アグン・グデ・マンデラ。
のちに「バリ芸能界20 世紀最高の演出家」と謳われたグンカ・マンデラ(マンデラ翁)です。
当時はまだ、海外に行くには船に乗るのが一般的だった時代。
バリ島も北部のシンガラジャの港が観光の窓口となり、神秘的なその伝統芸能を一目見ようと、
人々は何週間も船に揺られてやってきたのです。
グンカ・マンデラ翁がグヌンサリ楽団を手放した後、晩年の集大成として1978 年に結成したのが、
ティルタ・サリ楽団。
ティルタ・サリは、当時廃れかけていた古典的なガムラン楽器、レゴン舞踊の伴奏に最適な愛の神のガムラン
「スマラ・プグリンガン」を復興させ、プリアタン王家に代々伝えられてきた伝統レゴン舞踊の継承を目的として、
一躍世界的に有名になりました。
グンカがティルタ・サリに託した夢。それはほかでもない、古典への限りない愛なのでした。
1978 年当時、グンカはこのように語っていました。
「将来はおそらく変わるかもしれない。もうお金を見てしまったからね。
今の人々はお金が好きだから変わっていくだろうね。おそらく。そうして芸術は堕ちてゆく。
それは時代というものだ。だんだん魂もなくなって、本物じゃあなくなるんだろうね。」
バリの芸能は観光によって潤い、ますます盛んであるように見えます。
しかしその一方で人々は古典を忘れ、その中にこそ見いだすことのできる大切な何かを忘れ、簡単に金銭を受け取ることのできるものに迎合し、ものが見えなくなってきている、と。
天才舞踊家マリオ。
1920年代〜50年代にかけて活躍した舞踊家。クビャールトロンボンは女性舞踊を得意としていたマリオが、
1920年代「ゴン・クビャール」の演奏に合わせて即興で舞い始めたのがきっかけとなり作られた舞踊。
現在、ティルタサリでその歴史を伝承するのが、アナッ・アグン・グデ・オカ・ダラムさん。
マンデラ翁の子息として生まれ、8才で踊りを始め、9才からバリでも有数のトペンダンサーである
マデ・ジマット氏に師事。
マリオのクビャールトロンボンを妖艶に舞う姿は、見事な歴史の舞手です。
王宮で生まれ、育まれた、本物のレゴン舞踊。
今もその歴史を継承しているティルタ・サリ楽団。
スカワティ王家の流れを組むプリアタン村プリ・カレラン王家直属の楽団として、数百年の歴史を背負いながら後継者を育成し続け、そのレゴンの魂を今に伝えています。
ティルタサリは、毎週金曜日プリアタンのバレルンステージにて公演を行っているので、本場ウブドでしか感じることの出来ない、ガムランの音色、歴史を継承した本物のバリ舞踊を是非ご覧下さい。
ただ、毎週日曜日の10:00から行われている「ティルタサリの練習」を見る機会があったのですが、
ここで心に残る体験をしました。
いつものようにお供え物を作るオカさんとオカさんのお姉さんはかつてのレゴンダンサー。
ティルタサリが公演を行う、プリアタンのバレルンステージにて、敷地内のお寺にお祈りをします。
おとといの公演で見たステージの花形のダンサー、舞台に上がり始めた新米ダンサー、
まだまだ小さな幼稚園くらいの少女やガムランを叩く村の青年たちがたくさん練習にやってきました。
譜面もマニュアルもありませんので、レゴンは先生の掛け声を耳で聞きとり、時に体をぐいっと動かされ、
先頭で踊る先輩ダンサーを見ながら、型を体で覚える。ガムランも太鼓の合図とオカさんの指揮に呼吸を合わせて、
一つになる。
楽器を叩く手元は見ません。確かに、、夜の公演のステージは暗いところで演奏しています。
昔はもっと厳しい稽古をしていたということで、足の指は常に浮かせ、肩はぐっと上げ(時にはしばって固定することも)、指先の細かな動き、一瞬で動かす目の動き、等体が覚えるまで1日中1つの型だけをやらされていたそうです。
ティルタサリのレゴン舞踊はおいそれと習得できるものではなく、プリアタン村で生まれ育ち、プリアタンの先生に仕込まれたのでなければ、その奥深い味は出せないもの、と言われる一方で、ヨーロッパからバリス舞踊を学びに移り住んで来た60歳の女性も練習をしていました。
どうしてこんなに澄んだ音が出てくるのだろうガムラン楽器を眺めていたら、
右手で鍵盤を叩き、左手で抑え響く音を消す、と叩き方を教えてくれました。
歴史ある音色、スマラ・プグリンガン。
その後、今度はティルタサリからすぐ近く、プリアタン村のバンジャール・カラ(Banjar Kara)というところに住む、
クトゥット・マドラ(Ketut Madra)さんの絵を見るために家にお邪魔しました。
マドラさんの家はホームステイもやっていて、敷地の中には小川が流れていてとても静か。昔、アメリカからマドラさんの絵を買付けにグループがバリ島にやって来る、というので改築したらしいのですが、今は宿泊のお客様はほとんどいないそう。
先日はウブドのプリルサキン美術館で個展を開いていたバリ島の名画家。
その絵なのですが…
生きてるみたいです。見てはいけないものを見てしまったような。
思わず写真を撮ろうと思った時、絵なんて撮影してはいけないことを思い出しましたが、
「撮ってもいいよ。」とマドラさん。
真似出来ないですね。
今まで美術館でしか絵を見たことがありませんでしたが、、もしバリの絵を見たい、と言われたら美術館程飾られている絵の数はないのですが、絶対にここに連れてきます。
そしてマドラさん(写真一番左)は、夜はティルタサリでガムランを演奏しています。
日常の暮らしの中に、普通に絵があり音楽がある。
ウブドは芸術の村、と言われるのが今更ながら分かりました。
ティルタサリの練習とマドラさんの家へ行き、のびのびと芸を身につけて行くところ、誰でも受け入れてくれるところを見て、これこそがバリの姿、、と改めて感じた出来事でした。
ダンスの公演も美術館に飾られる絵も素晴らしいのですが、もしも日曜日、機会があったら誰でも見ることが出来るのでこの練習を見て欲しい、ウブドの画家さんの暮らしに触れ合ってみて欲しいです。
踊り手さんや演奏者の普段の顔、名画家さんの暮らし、を目の前にすると、もっと知りたいと興味が湧いてくるのでした。
オカさん、オカさんのお姉さん、ダンサー、ガムランの演奏者、一生懸命練習していた小さなダンサーたち、ティルタサリの皆さん、有難うございました
プリアタンより、約30秒、ガムランの音色とバリの空気をどうぞ。ちょっと画像は真っ暗なんですけど、伝わるかな。